2008年03月30日

ウェブ社会をどう生きるか

『ウェブ社会をどう生きるか』を読んだよ。学問的にウェブ社会を見ると…。

まずは、情報とは小包のような実体ではないという筆者の考えに衝撃を受ける。だって、ネットワーク的にはパケットとか言って、まさに小包を届ける風だから。
でも、基礎情報学的には違うらしいよ。いわゆる関係性によってもたらされるものが情報だと。
そして、さっきの小包的な情報は、機械情報という狭義の情報として定義される。なるほどと言いながらも、理解し難い。
さらに、機械情報に支配された世界にストップをかける必要があると。
機械情報中心に生じている情報学的転回にストップをかけ、生命情報中心の情報学的転回に反転させることです。そういう文脈のなかでウェブがいかなる役割を果たせるのか、考えていく必要があるのです。

ウェブの集合知という考え方にも疑問を呈する。梅田望夫氏の『ウェブ人間論』での発言にも批判的。要は単なる機械情報では責任の所在が云々ということらしい。あと、グーグルの検索意図にも疑問を投げかける。

グーグル信仰に止めの一発はこの言葉。
あらゆる情報や知識を網羅的・一元的に集め、それを体系化してコンピュータにより検索できるようにする、といった一神教的な野心は捨てたほうが賢い、ということです。
これはまさにグーグルの目指すところ。だから、完全否定。機械情報からは、生命情報たる「知恵」は生まれないという考え方だ。

う〜む。ビジネス的な側面のウェブばかり考えられてきてけれども、学問的にはかなり見解が違うよね。
今まで、梅田望夫氏の著書をかなり読んできたアッシには衝撃的な一冊でした〜。
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posted by りすじぃ at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 00総記

2008年03月20日

日本の森を歩く

『日本の森を歩く』を読んだよ。天然って何だろ。

日本に残る各地の原生林を訪ね歩く。北は北海道・阿寒から南は奄美大島まで。

どこの森でも意識させられるのが、照葉広葉樹林から始まって、落葉広葉樹林、針葉樹林、針葉低木林、高山草原と続く垂直分布の話。
当然ながら、北に行くほど、針葉低木林が低い標高で現れる。それでも、四国の石鎚山では、頂上付近に針葉低木林が出現する。アッシの意識では、四国は南の島なのに。
逆に、南では照葉広葉樹が高い標高まで出現しているのに、北では標高が低くても皆無だったり。
こんな風に、どこでもきっちりそれらの分布が現れているということが凄いことだと思うよ。

そして、森を巡る社会的な問題も。要は縦割り行政問題。林野庁、環境省、市区町村、地元有志etc。自然保護という立場(表向きかもしれないけど)は同じなんだろうけど、それぞれが勝手なことをやっているイメージは拭いきれず…。

アッシ的には興味を思ったのは、奥多摩・三頭山にもニホンオオカミがいたという話。東京都も広いと改めて思うよね。
あと、近畿地方以西の森についても。ほとんど知識が無かったから。

ガキの頃、「何言ってんねん記念物」なんて言ってた(流行語?)けど、天然記念物っていうのもあったよね。これは文化庁(文部科学省)だったぁ〜。
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posted by りすじぃ at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 60産業

2008年03月16日

数学でつまずくのはなぜか

『数学でつまずくのはなぜか』を読んだよ。タイトルだけだと教育論かと思いきや、そうではなくてあくまで数学本。

タイトルの通り、数学でつまずく原因とその対応策を考える。特に中学で算数から数学に変わると分からなくなる。それが単に中学教育が悪いとかそんな浅はかな結論を筆者は言わない。その解決方法にさえ、数学の別の手法を使っているよ。そこがユニークなところ。
そして、前書きには、いきなり
あなたが数学でつまずくのは、数学があなたの中にすであるからだ。
というパラドキシカルな言葉。これは本文中のアフォーダンスという概念に繋がっていく。

カテゴリ毎にいろいろな話題を題材に話は進む。幾何では、ユークリッドの公理系が主な話題。ユークリッド幾何学は、平面状では通用するけど、球面上では成り立たない。ということは、宇宙空間にまっすぐ引いた直線も成り立たないのかも。そこから導かれる結論は、
わたしたちの宇宙は、わたしたちには想像できないようなねじ曲がり方をしていることになる
かも…と。

自然数の話題では、ホワイトヘッドという数学者の言葉を紹介しているよ。
「魚が七匹いる、という7と、一週間が七日ある、という7が同じものだと認識した人間は大変な発見をしたのだ」
この言葉は自然数の難解さを象徴しているような。その難解さとは定義そのもの。自然数の定義なんて…と思うかもしれないけど、数学的な厳密な定義は非常に難しいよ。最後は集合論まで駆使しているから。自明なことを定義する難しさ。まさに自然数の定義はそれを思い知らされた話題でした〜。
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posted by りすじぃ at 08:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 40自然科学

2008年03月07日

思考の補助線

『思考の補助線』を読んだよ。茂木さんの中でも比較的難し本かも。

「思考の補助線」という言葉を聞いた時に思い出したのが、『フェルマーの最終定理』に書かれていた「谷山・志村予想」のこと。何の関係性もないように思える事象が、ひとつに結ばれる。その結ぶ線を「思考の補助線」と想像してみたわけ。

本書の底流にあるものは「知の世界全体を引き受ける」というテーゼ。例えば、ニュートンやアインシュタインは物理学という手法において、「知の世界全体を引き受け」ようとしたわけなんだけど、一見そのように見える世界は実は違っていて、部分問題しか扱えていなかったというのは事実だと思う。

意識と普遍の問題もテーマに。
意識とは、個別が普遍に接続する形式のことである。<中略>人間は、個々の生という個別を生きていると同時に、時空間的な限定を受けない普遍をも生きている。
と、筆者。これはまさに不思議な感覚。固体としては制約だらけなのに、脳の中は普遍なんだよね。無限のことも考えられるし、自由がそこにあるという感じ。それを「仮想」というわけだよね。

無限という概念の話も。
実無限を人間は引き受けることはできない。我々の考えられるのは可能無限までだと。それでも無限を考えられる脳は凄いと思う。それこそ、仮想の世界の無限性がそこにあるんだろうね。

それにしても、「知の世界全体を引き受ける」統一理論を誰か発見してくれないかなぁ〜。おっと、これは自分自身が考えることを止めることに繋がるか…。
アッシも人間として考えることを止めてはいけないと思う。本書的にいうと、考えることで快感を得られる脳でありたいと思う。
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posted by りすじぃ at 06:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 10哲学